自然が大好き!と心から口にできるのは現代の日本人には少ないかもしれませんが、古くは自然と共生することを大切にしてきたといいます。
植物好きの皆さんでしたら少なからず自然や地球環境への意識は人並み以上にあるかと思いますが、日本人の自然観の根元について深く考えたことはおありでしょうか。
なぜ日本人は四季の移ろいを愛で、万葉の歌を詠み、植物に囲まれて過ごすようになったのか。
伝統芸能や年間の行事を見ていくと、そこには必ずといっていいほど植物や自然の要素が溶け込んでいます。
そしてそれは戦後大きく変容してしまった現代日本でも、時折その片鱗を垣間見ることができます。
今年最後の記事ということで、この頃わりと私的に研究していた日本人の自然観についてちょっとだけまとめていきます。
「諸行無常」という言葉がありますが、日本人の心の底流には無常観が脈々と受け継がれています。
この無常観は仏教の教えの一つで、その意味は文字通り、物事は千変万化し常に同じものなどなにもないということ。
仏教はインドで生まれ、中国や東南アジアを経て日本に伝来してきたわけですが、この無常観が今もなお色濃く残っている国は日本をおいて他にないでしょう。
なぜこれほどまでに無常感が日本人の心に定着したのか、これにはなにか秘密がありそうです。
戦前の物理学者・寺田寅彦氏の著作「日本人の自然観」によれば、仏教が伝わるずっと前から、日本人には「天然の無常」なるものがあったといいます。
これには日本独特の気候や地理的要因が深く関わっており、成るべくして出来上がった感覚なのだそう。
台風や地震が頻繁に起こり、気候の変化が激しい日本では自然を支配するなどという考えは毛頭浮かばず、成すがまま、諦めに近い感覚で自然に畏怖し時には感謝し暮らしてきた。
その反面気候が穏やかな西欧では、自然を支配するキリスト教などの一神教が生まれてきました。
海外から日本の魅力を問われて、「四季の美しさ」と答えるのも良いですが、畏怖すべき天災の存在が表裏一体としてあり、それこそが日本文化を形成してきたことも忘れてはならないですね。
およそ人智の及ばない、絶対的ともいえる幸福感を与えてくれる自然の美しさ。
天災という負の側面にはどうも目を背けがちですが、もっと付き合い方を変えるべきではないかというのが私の今後の研究課題です。
日本神話の話です。
神話の中でも有名な天岩戸隠れの話ですが、太陽神・アマテラスはスサノヲの数々の蛮行を前にショックで岩の洞窟の中に閉じこもってしまいます。
太陽神が隠れてしまったため世界は暗黒に包まれ悪いことが起こり、八百万の神々が作戦を練りなんとかアマテラスを洞窟から引っ張り出すというものですが、この話には日本人の自然観や死生観の本質が潜んでいるように思えてなりません。
古来より木を用いた木造住宅に住み、石室や古墳など石で造られた建造物は墓としてきた日本人。
海外では人の住まう石造りの建造物はたくさんありますが、日本人にとってそれは死の世界なのです。
木造住宅といえども外部から完全に隔てるつくりではなく、限りなく開放的です。
垣根や仕切りも竹や紙など極めて有機的で脆く、突破しようと思えば突破できるものが多い。あとは受け手の善意に委ねられている簡素なつくりです。
土間や軒下なんて外部なのか内部なのかわからないあやふやな空間も日本独自のものですね。
少し話は変わりますが、開放的だった日本を象徴するような話です。
中野 明氏の著作「裸はいつから恥ずかしくなったか―日本人の羞恥心」という本の中で、江戸時代まで混浴はごく自然なもので、人目に付く玄関先で裸で水浴びしたり、銭湯から家まで全裸で公道を歩いて帰ることも当たり前だったという記述がありました。もちろん男女問わず。
今では想像もつきませんが、その頃は裸に対する羞恥心やエロスがなかったようですね。
これを読んで、江戸時代までの日本はえらく開放的で、集団主義で、今の個人主義ならぬ利己主義な社会とはまるで違うと思いました。
欧米型の資本主義を丸々受け入れ、風土に合わない誤った個人主義が定着してしまった日本。
今の引きこもり問題は、戦後ブレにブレた日本が引き起こした大きな問題の一つです。
神社といえば鳥居と、立派な社(やしろ)と、忘れてはならないのが森です。
あの社を取り囲むような森のことを鎮守の森といいます。
高層ビルが乱立する都内でも、小規模ながら神社に付随する鎮守の森の緑がぽつんと残されていることがありますが、あれはなんなのか。
なにか祟りがありそうで怖くて切れず残されてきただけかもしれませんが、まあそれこそが神が宿るというアニミズムの自然観なのですが、それはありふれた話なので置いときます。
神社の中で最も格式高い伊勢神宮では、20年に一回式年遷宮といってお宮を建て替えますが、実は古来神社というのはとても仮設的な存在で祭りにむけて毎年建て替えるのが普通でした。
あくまでも神が去来するその場こそが重要だったわけです。社が社(もり)と読めるのもそういう訳があったんですね。
古来の日本人がいかに自然を崇め、大切にしてきたかがわかります。
また、注連縄を張り巡らした磐座や神籬、ご神木が、日本人の「間(ま)」に対する感覚を研ぎ澄ました要因だと思います。
以上、日本人の自然観について書いてきました。
でもこんなこと現代の暮らしに必要ないし・・・と思われる方もいるかもしれません。
しかし日本人の自然観は死生観にもそのまま直結するのが面白いところ。
土着の自然観を学び考えることは、現代を生きる哲学を育むことでもあります。
自然が蔑ろにされがちな現代では、なにか危機に直面したときの心の空白を埋める寄り処がなく、絶望に瀕し自殺に追いやられるケースも数多く見受けられます。
今一度日本の自然観の本質を見極め、その中で生きる自らを自覚し、生きる意味を見出すのが現代の日本人には必要なことではないでしょうか。
来年はより、そんな年にしていけたらいいです。良いお年を。
記者・・・飛田亮