突然ですが皆さん、「竹」好きですか?
古都・京都など歴史的な街並みを散策していると必ず目につく竹垣。
日本の文化的なものや伝統味のあるものには必ずと行っていいほど竹の存在が付きものです。
その反面、現代の私たちの生活からは竹の姿がほとんど消え去りました。
日本人と竹の付き合いは縄文時代後期には始まっていたといわれます。そのころから竹かごを編んで生活に利用していました。
それが戦後の経済成長と共に影を潜めていき、今では安価で簡単に手に入る化学製品にその座を奪われています。
縄文時代後期から戦後の経済成長までがおよそ3000年。
戦後の経済成長から現代までがおよそ50年。
3000年間続いてきた竹との家族づきあいをこの僅か50年で断ち切ってしまった我ら日本人。
無限の可能性を秘めていた竹やぶも、今では放置され荒れ果て厄介者扱いされている有様です。
竹に限らず長い歴史をもつ日本文化のほとんどを置き去りにしてきた私たちは、まるで現代は仮初めの浮世を生きているような感じさえしてきます。
いや、「仮初め」や「浮世」は日本文化の特徴を表すいい言葉ですが、仮初めの仮に対する真が、浮世の浮いた足の着地点が、この50年ほどで異物にすげ替えられてしまった感が否めません。
果たしてこのままでいいのでしょうか。確かに生活は便利で快適になりましたが、この心にぽっかり空いた空洞はなんなのでしょうか・・・。
空洞といえば、竹は中身が空っぽです。
かぐや姫が入っていたように、丈夫な幹の内側はぽっかりと空いた虚(うつ)なのです。
竹は松竹梅と称されるように、お正月に飾る縁起物としても知られています。門松は本来松が主役ですが、竹が主役といってもいいくらい目立ちますね。
どうやら竹が縁起がいいとされる由縁は、中身が空っぽということにも関係があるようです。
それは古代の日本人が、竹の空洞になにか神聖な畏れを感じてきたからです。
あれ程早く丈夫に成長する竹なのに、中身はなにもない。きっと一種の不気味さを伴う不思議な感覚が巻き起こったのでしょう。
その空洞には神が宿るとされ、かぐや姫の話ができたのも納得がいきます。
竹は中身が空っぽだからこそ加工がしやすく身近な存在になり、また精神面においても日本人と竹は波長の合う間柄だったのでしょう。
この考えに確信を持たせてくれたのが「中空構造日本の深層」という本でした。
心理学者の河合隼雄氏が1982年に出版した本で、日本という国の本質は空っぽだという、なんとも衝撃的で面白い本です。
確かに日本文化には中身が空っぽのものが多い。
例えば神社の最深部である本殿にはなにも祀られていないというケースはよくあることです。
伊勢神宮の本殿にも心御柱があるだけですし、しかも神様は去来するもの、常にそこにはいません。
日本人の自然観にしても、古来「自然」という語を「おのずから」と読んだように、西欧のように自然において意味や本質を求めることなく、ただ自ずから存在するものとして見ていたことも中空構造と関係あるでしょう。
人間の心の捉え方にしても、西欧はとことん理詰めで解き明かしていくのに対し、日本人は和歌に託すなど本来的な心を追及する姿勢が希薄で、仏道修行においては心そのものを否定する方向にさえ向かいました。
あまつさえ日本という国のシステムである天皇制も、中空構造といえるのではないでしょうか。
天皇はいつも国の中心にいながら実質的な権力を振るわず、その周辺の貴族や武士たちが国を動かしてきました。
では天皇が力をもつとどうなるか。第二次世界大戦時には軍部の暴走により昭和天皇が日本軍の大元帥に仕立て上げられた訳ですが、その結果は言うまでもありません。
日本には世界に類を見ない平安の350年、江戸の250年という平和な時代がありましたが、これは天皇という国の中心でありながら空の存在がいたからこそだと思います。
私はこれらの事例と竹との連関を考えずにはいられません。
日本文化そのものを体現したような竹という存在。それは私たち日本人の誇りとして、受け継いでいかなくてはならないものだと思います。
ちょっと脱線しがちでしたが、竹の内面的な魅力を感じてくれたでしょうか。
竹や日本文化特有のなにもないからこそ感じる間の文化。それこそがこれからの世界を豊かにしてくれるものだと私は本気で思っています。
竹と共にあった3000年の歴史が、再び紡ぎ出されることを願うばかりです。
記事・・・飛田亮