2016/01/23

なぜ、今禅なのか。現代社会と日本文化の軋轢に見る問題点

以前、このブログで「日本文化のおもしろさ」シリーズを連載していたことがありました。

何のために書いていたのかというと、私は自然と同じくらい日本文化が好きで、皆さんにもおもしろさを伝えたいという思いがあったからです。

しかしそれだけではありません。

現代では古き良き日本文化が忘れられ、日本人らしさが埋もれているという危機感からでもありました。

それのなにがいけないのか。という意見もあるかと思いますが、現在起きているいくつかの社会問題を例に挙げ、日本文化と照らし合わせて考察してみようと思います。

↓「日本文化のおもしろさ」シリーズ↓

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 電車という空間

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私は電車の中の空気があまり好きになれません。

学生時代は千葉から神奈川まで片道2時間の距離を毎日電車で通っていましたが、遂には克服できませんでした。

年齢も目的もバラバラの見ず知らずの他人と過ごす閉鎖的な空間。

なにをしても落ち着かず、結局は寝るか本を読むかスマホをいじり始めるのですが、これは本当にいいことなのか、強迫観念のようなものが常にまとわりつき居心地が悪いのです。

そんな車内では席を譲る譲らないや車内電話などの些細なことがきっかけでトラブルになったり、痴漢などの犯罪も問題となっていますね。

先日、こんな記事をたまたま見つけました。

 

この中で筆者は日本のことを「お年寄りが、電車内で席を譲ってもらったことが家族に話すトピックになる国だと述べています。

私はなるべく席を譲る派ですが、譲らない人の気持ちもわかります。

周りに「善人ぶってる」と思われるのが嫌なのも、車内で少し目立ってしまうのが恥ずかしいのもわかります。

むしろそれこそが日本人である証拠だと思います。

「日本文化のおもしろさ」の建築編で、日本家屋内の境界は総じて植物由来で、透けたり気配が感じ取れる程度の「仮設的」なものが用いられてきたと記しました。

その為、周りの人々や自然と協調する「和」の精神が育まれてきたとも記しました。

現代の電車の車内においても「和」は機能するにはするが、現代のシステムには充分に対応できないことが、なんともいえない軋轢を生みだす原因だと思います。

開国以来破竹の勢いで発展を遂げた文明の中では、「和」は相互監視システムのようなものに変貌してしまったという訳です。

これを進化と呼ぶか退化と呼ぶかは人それぞれですが、今までの日本人の気質とは相容れないものになってしまったような気がします。

周りばっか気にしてしまいこれといった手が出せず、歯痒い思いをする。

この典型的日本人像は、現代社会と日本文化の軋轢が生み出した悲劇の1つといえるでしょう。

 数値と見た目がステータスな社会

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ありとあらゆることが数値を基準に決まってしまう社会。

小学校のテストの点数から始まり、授業の成績、部活動での順位、学歴や偏差値、バイトの給料、会社の年収、終いには遺産まで?

どれも多ければ多いほど、高ければ高いほどいい。

現代を生きる私たちにとっては命の次に大事なことかもしれません。

ですが学歴や偏差値なんて人類史の数十万年間から見て、ここほんの数十年の物差しでしかないし、「時は金なり」なんていいますが本当にお金が全てなのでしょうか?

数値ばかり追いかけて生きていくと、本当は人生の手段であるはずのお金が目的にすり替わってしまう危うさがあります。

日本を周っていて気づいたのが、どんな寂れた街にもパチスロがあって、広い駐車場にたくさんの車が止まっていること。

お金目的の詐欺や犯罪も後を絶ちませんし、お金を追うばかりで自分の生きる意味を見いだせていない人がたくさんいます。

また、数字と同じく見た目も大事なようです。

最近は子どもに化粧やオシャレをさせる親も多く、キラキラネームなんてのも話題になりましたね。

自分はまだしも子どもまでアクセサリーにしてしまう親が増えているようです。

離婚や児童虐待も増え続けている現状ですが、このままだと不幸な家庭が増え続けていく一方です。

人も生物ですからより豊かになりたいという願望を根源的に持っています。

資本主義の時代が到来しその願望をより強く解き放てるようになりましたが、果たして人々は幸福になったのでしょうか?

答えはNOだと思います。

だって私たちは元から知っているはずなのです。先人たちが残した足ることを知る生き方を。

 なぜ、今禅なのか

さまざまな欲が際限なく渦巻く時代にこそもってこいなのが、先人が残した禅の思想です。

自分の内面をとことんまで突き詰めて考えていくことで、本当に必要なもの、やるべきことが見えてくるはずです。

京都にある龍安寺は石庭で有名ですが、禅の教えを表したこの手水鉢もまた「龍安寺つくばい」として有名です。

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Photo by (c)Tomo.Yun

中心の四角く穿った穴の周りには「五・隹・疋・矢」の文字が刻まれています。

中心の四角を「口」として当てはめると「吾・唯・足・知」となり、「われ、ただ足るを知る」と読みます。

「外面をいくら満たしても心が貧しければ満たされず、心が満ちていればたとえ貧しい暮らしでも充実した日々を送れる」

といった意味で、「外面より内面を充実させろ」というメッセージに受け取れます。

若い人々はテレビなどのメディアが作りだす華美な世界に振り回されがちですが、 芸能人のようなお金持ちになることが本当に幸せなことなのか、取り返しのつかないことになる前にちゃんと考える必要があります。

メディアの在りようも問いたださなくてはならない問題ですが、私たち大人がちゃんと理解し、行動で若い人々に伝えるべきだと思います。

いくら外面を飾ったって内面が満たされることは断じてないということを。

今の化粧をしている小学生たちが親になって、またその子どもが・・・と続いていけばついには日本の良さや本質を語れる人が潰えてしまうのでは。

そういった人々がこのブログに辿りつくことはないと思いますが、書かずにはいられませんでした。

馴れない社会的な内容でまとまりのない感じになってしまいましたが、以上で終わります。

記事・・・飛田亮

 

投稿者: GardenPorter

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